Sir Humphry
[生]イギリス,コーンウォールのペンザンス 1778.12.17
[没]スイスのジュネーブ,1829.5.29
木彫家の息子で,薬種屋へ年期奉公に入った。はじめは数学から哲学まで多方面にわたって関心を示したが,彼の詩人としての才能もかなりのものがあったらしく,晩年にはワーズワースやコールリッジのような大家から尊敬され後援された。
1797年ラボアジェの化学教科書を読んでから化学に専心するようになり,薬種屋の年期があけてから,気体を病気治療に利用するための研究所を設立した1人の医者に紹介されてその研究所に勤めることになり,20才でそこの所長となった。
そして1年経たないうちに熱の研究をし,ラボアジェの熱素説に反対して,熱は、運動の一種であると主張した。気体についても,ワットが作ってくれた器具を使って研究し,有毒なガスのために危うく命を失いそうになったりした。ワットとデービーの関係は偶然のものではなく,ワットの蒸気機関が最初に評判になった場所がデービーの生まれたコーンウォールであり,そのうえ,ワットの次男のグレゴリはデービーの母の家に下宿していたのである。デービーは酸化窒素を発見し,その異常な性質について発表した。これを吸入すると,目がくらみ酒に酔ったようになり,抑制心が失われ,簡単なことに刺激を受けて,笑ったり泣いたりするようになった(しばしば笑気とよばれる)。しばらくの間,一部の人間の間ではこの気体を吸って遊ぶ会合が大流行した。しかしより大事なことであるが,この化合物は史上最初の麻酔剤として使用された(現在でも歯の治療には使われることがある)。
1801年ロンドンに王立研究所を設立したランフォードは講演者を探していて,試験的にデービーにやらせてみたところ,その講演が気に入ってこの田舎じみた若著を直ちに採用した。翌年デービーは教授に任命された。デービーは平静で魅力的で,生まれつきの興行師で,すばらしく上手な講演をし,そのうえ若くて容姿がすぐれていたので,ナポレオン戦争のために派手な活動を押えられていたイギリスの上流階級の人々は,とくにロンドンの貴婦人たちはラボアジェの新しい化学についてのデービーの講演を聞くために王立研究所へ大勢押しかけた。
この間,農芸化学の研究に手をつけたデービーは完全な成功を収めるわけにはいかなかったが,(1813年に)農業への化学の応用についての教科書を著わした。その名声を確実なものにしたのは電気の研究である。ニコルソンによって水の電気分解が行なわれたあとで,デービーは,ほかの化合物について電気のはたらきを研究した。石灰・苦土・あく・ソーダなどは成分として金属元素**今までに単離されたことがない**をもっているのは確実らしいのだが,金属元素と酸素との結合が強く,強く加熱しても,酸素と化合する力の強いほかの金属を作用させても,結合を解いて金属を分離することができないでいた。
独自の電気実験を行なっていたデービーは1806年に,ナポレオンが年間の最優秀電気研究に対して贈る賞を贈られた。当時イギリスとフランスは交戦中だったため,賞を受けるかどうかが一般の関心の的になったが,デービーは,政府同志は戦争をしていても科学者は戦争をしているのではないといって受け入れた。次いで250枚もの金属板を用いた史上最大の電池を作り,それによって得られる大電流を,はしめは,前にあげた物質の溶液の中を,次にはその溶融液の中を通した。
すばらしい結果が得られた。1807年10月6日,溶融した水酸化カリウムに電流を通したところ金属を分難することに成功し,彼はこれをカリウムと名付けた。カリウムを水の中へ入れると,この輝いた小さな粒は水の分子を分解して酸素と結合したがっているかのように水素を分離し,薄紫色の炎をあげて燃えた。これを見てデービーは跳り上って喜び,さらに1週間後には炭酸ナトリウムからナトリウムを分離した。
1808年にはベルセリウスに教えられてやや方法を変え,バリウム・ストロンチウム・カルシウム・マグネシウムを単離した・ホウ素の単離にも成功したが,僅か9日の差をもってゲイ・リュサックとテナールに先を越された。ゲイ・リュサックの研究とデービーの研究とはほかの場合にもいくつかかち合っているものがある。すべての酸が酸素を含有しているというラボアジェの説を打破したのもほとんど同じころで,塩酸が酸素を含まないことを立証したのがデービーであり,ゲイ・リュサックは青酸で立証した。また2人ともクールトアの発見したヨウ素が元素であることも明らかにした。
このような論争のうちでも,最も印象的なデービーの研究といえば塩酸の研究であろう。彼は,塩酸が最も普通に得られる強酸であるばかりでなく(だからこそ酸素を含まないことは驚くべきことなのだ),塩素が元素であり,30年前のシェーレの説と違って,酸素を含有しないことを立証した。色が緑なので塩素を***ギリシア語で緑という意味の***chlorine(クローリン)と名付けたのはデービーである。
1812年に教授をやめ,騎士の称号を受けるとすぐ結婚し,翌年ヨーロッパの旅へ出発した。イギリスとフランスは交戦中であったにもかかわらず,フランスの化学者たちから暖かく迎えられた。デービーには,実は休養が必要だったのだ。シェーレと同し薬物の匂いを嗅いだり味わったりする習慣があったため,1811年には明らかに薬物による毒のために身体をこわしてしまい,1812年には三塩化窒素の爆発で耳を悪くした。長生きできなかったのは当然である。
1815年には炎を金網で包むようにしたデービー燈を発明した。燃焼に必要な酸素は金網を通るが内部の熱は金網で消され外部の爆発気体に点火しないように工夫されたもので,これによってはしめて炭鉱爆発が防止されるようになり,1818年その産業への貢献によって準男爵に任ぜられた。
またアーク燈を発明し,電流を照明に使用する初の試みを企て(この企てはエジソンの時代まで成功しなかった),自金の触媒作用についてはじめて記録した。触媒についてはデーベライナーがすばらしい研究成果をあげている。
1820年バンクスの跡を継いで王立協会の会長に推され,1823年以後はほとんど梅外で暮らし,スイスで没したが,ドルトンの原子説はついに認めないで終った。その遺志によって年間の最も重要な発見をした化学者に贈るメダルが作られ,1877年最初の賞がブンゼンとキルヒホッフに与えられた。この2人はデービーと同じように新元素発見の方法を開発し,とくにデービーの発見したナトリウムとカリウムとの密接な関係を見つけたのであるから,デービー・メダルにふさわしい人だったといえる。
デービーは物質探究だけに功績を残したのではない。彼の講演を聞き,自ら進んでその助手になった若者マイケル・ファラデーを1813年のヨーロッパ旅行に連れて歩いたが,デービーの発見物の中でファラデーこそ最も大きな発見物だったことがあとでわかり,ファラデーはその師よりも偉大な科学者となった。
ファラデーの才能を知っていたデービーは当然彼がすばらしい業績をあげることを予知し,やきもちをやくようになった。1824年にはファラデーを王立協会員にすることを妨害したが,幸いにも失敗した。ファラデーはデービーの卑劣なやり方に仕返しをすることはなかった。ファラデーは科学面だげでなく,人物としても立派だったのである。