ヘルムホルツ HELMHOLZ,Herman
Ludwig Ferdinand von
ドイツの生理学者・物理学者
〔生〕ポツダム,1821.8.31
〔没〕(ベルリン近郊の)シャルロッテンブルク,1894.9.8
ヘルムホルツはウィリアム・ペンの子孫である。子供のとき病気がちだったので医学を学んだが,そのときの教節の中にはミュラーがいた。1842年卒業のあとしばらくプロシア軍の軍医を務め,1849年フンボルトの影響とすすめに従い,はじめて教授の地位を得て,ケーニヒスベルク大学の生理学教授となった。その後ハイデルベルク大学で解剖学を教え,さらにその後ベルリン大学で物理学を教えた。その研究対象が広かった点では,同じように医者で物理学者だったトーマス・ヤングと似ている。
ヤングと同じように目のはたらきについて研究し,1851年に検眼鏡を発明して―――現代の眼科医にとって不可欠のものである―――自の内部をのぞくことができるようにした(同じような装置をバベジも発明していたが,ヘルムホルツの発明はそれとは別である)。また彼は検眼計も発明して,目の曲率を測れるようにし,さらにヤングの三原色の理論を復活させ拡張したので,現在ではこの理論はヤング・ヘルムホルツ理論といわれている,ほかにも感覚器官,とくに耳について研究し,耳が音の高さを判断できるのは,つるまぎばねのような蝸牛殻が内耳にあるからだとした。彼の説明によれば,蝸牛殻中には段階的に小さくなっている共鳴器があり,音の高さに段階的に反応するようになっていて,この共鳴器の振動によって音を識別するのである。
彼はさらに音の質が上音(音源の基本振動より速い振動による音で,基本振動と速い振動との振動数は簡単な比になっている)の数と性質と強さによって定まることを指摘した。基音と上音とが混合された音は共鳴器に独特の反応を起こすために,違う楽器から出た同じ高さの音でも音質が異なることを識別できるのである。彼はまた高さの異なる音が協和して快く響くか不協和音となるかは,混合音の波長と,生じるうなりの振動数によって定まるという事実を解析した。彼は科学の原理を音楽という芸術に応用したのである(すぐれた音楽家だった彼はとくに研究を楽しんだにちがいない)。
神経を伝わる刺激の速さをはじめて測定したのもヘルムホルツである。彼の師ミュラーは,短い距離をひじょうに遠く伝わる刺激は科学では解明できない間題のよい例であるということを好んで話していたが,1852年,ヘルムホルツはカエルの筋肉についている神経を,はじめは筋肉の近く,次いでもっと遠くを刺激してみた,遠くを刺激したほうが筋肉が反応する時間が遅くなることをどうにか測定することができた。
ヘルムホルツはまた数学者でさえあり,リーマンが創設した非ユークリッド幾何学の研究もした。しかし彼の名が最も知られているのは物理学,とくに筋肉運動の研究によって到達したエネルギー保存の原理についての論述によるものである(動物の熱が主として筋肉の取縮によって生じること,酸---今日では乳酸であることが知られている---が生じるのは筋肉の運動によることをはじめて明らかにした)。
エネルギーの保存についてはすでに1842年にマイヤーの発表が行なわれていたが,ヘルムホルツは1847年に独力で,詳細な,独特な方法で発表したために原理発見の名誉は,普通彼のものとなっている。しかし今日ではその名誉を,マイヤー,ヘルムホルツ,ジュールの3人に三等分しようという傾向になってきた。ほかの2人と同じにヘルムホルツもその論文を印刷してもらうのに苦労し,結局小冊子の形で発表せざるをえなかった。
ヘルムホルツはエネルギー保存の概念を用いて活力論者に反対した。もし生物体だけに“生命力”があって、生命のない万物にはそれがないと仮定すれば,エネルギーの保存は有機体には適用されないであろうと説いた。なぜなら,生命力のある有機体は永久運動機械----実際にはそうではないのだが----となるはずだからである。
1854年ヘルムホルツは太陽エネルギーの源泉について考察した。当時正当と考えられたただ一つの源泉は早くからマイヤーが指摘していた,万有引力であった。ラプラスの星雲説は,太陽ははじめ大きな星雲であったのが徐々に収縮してゆき,太陽の中心に向かって落下する粒子の力学的エネルギーが放射エネルギーに変ったのだとしたが,そういう考えが長い間人々を支配していた。
しかしそう長続きはしなかった。太陽から放射される放射エネルギーから太腸収縮の割合を計算したヘルムホルツは,太陽が地球の軌道に達するほど大きかった時期を算出した。この計算によると地球が存在していた時間の長さは2500万年ということになった。ケルビンが計算した地球が冷却するまでの時間と同じようこ,この値は生物学の理論に照し合わせてみると極端に短いものであった。ケルビンもヘルムホルツもともに放射能と核エネルギーの存在に気がつかなかったわけで,ヘルムホルツがこの世を去ってから数年後に彼の説が誤りであることが認められた。
それでもこの誤解はある部門では有益な結果をもたらした。ネーゲリやケリカーは進化が突然飛躍的に行なわれるという説を立て,ヘルムホルツやケルビンが計算した期間内でも充分な進化が行なえるように進化の過程を思い切って短くした。その30年後ド・フリースは突然変異説を唱え,ダーウィンの自然選択による進化論に大きな修正を加えた。
ヘルムホルツが始めてほかの人が完成した研究にも大きなものがある。マックスウェルの電磁放射の研究に興味をひかれた彼は,彼の弟子のヘルツに,可視光線でない放射線の存在をつきとめるように教え,彼の指示に従ったヘルツがその事実を立証した。ヘルムホルツはまた,電気分解中に溶液中を通過する原子または原子団は“微量の電気”を運ぶということを推論し,アーレニウスの研究のさきがけをした。