ランフォード


Rumford,Benjamin


Thompson,Count


アメリカ系イギリスの物理学者


〔生]マサチューセッツ州ウォバーン
   1753.3.26
[没]オートウイユ(パリの近く)
1814.8.21

 ベンジャミン・トンプソン(ランフォード伯として有名)の生地は,もう1人のべンジャミンであるフランクリンの生地から2マイルの距離のところにある.はじめセイレムの商店に奉公に入り,次いでポストンヘ行って別の店で店員をし,18才のとき,かなり年上の金持の未亡人と結婚した。もし独立戦争が起らないで,また彼が王側へつかないでいたら,物事はすべて順調に行くはずであった。イギリスの軍隊がポストンを離れる際に軍隊に同行し(妻と子を残して),戦争中はイギリスの小さな行政府の役人をしたが,最後は国王軍の陸軍中佐として,抵抗を続ける植民地にしばらく滞在した,独立戦争が終って,植民地が独立したとき,永遠の亡命者となったことを知り,1783年ジョージ3世の許しを得て冒険を求めてヨーロッパに戻った。ヨーロッパでパパリア候と知り合い,その下で行政官として腕をふるったので,1790年には伯爵に任ぜられたが,その際,妻の生まれ故郷で彼の土地が少しあった町の名をとってランフォード伯と名乗った。ババリア候に仕えている間に熱の問題について関心をひかれ,この問題について大きな功績を残すことになった。

 18世紀には,熱は燃素(フロジストン)と同しように重さのない流体であると思われていた。ラボアジェは燃素説は粉砕したが,熱については重さのない流体で熱素(カロリック)とよばれるものが,物質相互の間を出入りするのだと考えていた。ババリアで大砲の穴をあける作業を見学したランフォードは,錐が金属の断片をえぐり出すときに炎のように高温になり,たえず水で冷やさなければならないことに気がついた。これに対しての従来の説明は,金属が断片にされるとき,金属中にある熱素が放出されるのだというものであった。しかし穴あけが続いている間に放出される熱の量はかなり多いもので,もしこれを金属中に戻すとすれば,金属が溶けてしまうほどのものであり,別のいい方をすれば,金属中に存在する以上の熱素が放出されることにランフォードは気づいた。しかも穴あけ器具が鋭くなくて,金属片をえぐり取らないときでも熱素はとどまることなく放出され,金属の温度はますます上昇してしまうのだった。このことからランフォードは,熱は穴あけ職人の運動が姿を変えたものであり,したがって熱は運動の一形態であるという結論を出した。(熱運動論)

 この点は今日でも正しいとされている。そして与えられた力学的エネルギーからどれだけの熱量が生しるかを計算して,今日,熱の仕事当量といわれるものの存在をはしめて想定した。彼の計算した値は大きすぎたが,その半世紀後,ジュールによって正しい値が測定された。ナポレオンの勝利を機にイギリスへ帰ったランフォードは1779年その功績を認められて王立協会員に迎えられた。その年に,水の重さが,水の場合と氷の場合とで異なるかどうかを調ペ,最も敏感な秤りを用いても差異が認められないことを発見した。ブラックの実験で明らかなように,水は氷になるときに熱を放出し,氷が融けるときに熱を吸収するのであるから,もし氷と水で重さが変らないとすれば,熱素には重さがないことになる。燃素説が打破されてから重さのない流体の存在は疑わしいものとなっていたので,この実験によって,熱素説の勢カも衰えた。
 ランフォードは王立研究所を創始し,デービーという名の講演者を頼んだ。はじめはこの若者のカを疑っていたが,その講演を聞いて安心した。デービーはその講演によって名声が高まったが,ランフォードと同じ結論を出す実験をすでに実施していたのであった。氷点以下に温度を保つようにした装置の中で氷を摩擦する実験をしたところ,従来の説に従えば,この装置全体には氷を融かすだけの熱素が存在しないわけなのに氷が融けたので,デービーは,機械的運動が熱に変化したという結論を出した。この実験によって,ランフォードとの関係でデービーの体面に傷がつくことはなかった(科学史家たちは,デービーの述べたように実験が行なわれたかどうか疑っているが,しかしデービーは実験が成功したと信して,その結果を最初の著書の中に述べたのである)。いずれにしても,ランフォードの実験もデービーの実験も,物理学者を納得させることができず,熱素説はプレボーの研究により実証されたように思われ,ペルトレなどの強力な後援のもとで,その後50年間生き続けた。熱素説を完全に破ったのはマックスウェルである.
 ランフォードは1804年にパリに赴いたが,このときはイギリスとフランスは対戦中で,フランスはイギリスへ侵入しようとしていた(政治への情熱は,そのときはもう薄れていたようである)。パリ滞在中,故ラボアジェとの二度目の縁ができた。つまりラポアジェの熱素説に対立する証拠をあけたあと,その未亡人と結婚した(ランフォードの夫人はすでに死亡していた)のである.それは,ランフォードが50才をちょっと越え,夫人は50才になるところという晩婚であり,結果は不幸なものであった。4年後に離婚したが,彼女に対しての当てこすりや,ラボアジェに対しての非難に対してランフォードが夫人を守ろうとしなかったからである。おそらくランフォードは第一級の人物ではなかったのであろう。