佐藤 学   教育の方法

「学びへの誘い」 第2章 学びの対話的実践へ ,東京大学出版会,1995年
p.50  「学び」という言葉を導入するのは,「学習」という硬い翻訳語を柔らかい日本語で表現し直す衝動を基礎としているが,その意図はむしろ別のところにある。これまで外から操作対象として認識されてきた「学習」を,学び手の内側に広がる活動世界として理解する方途を探索することが,主な目的である。「学習」という言葉が,その経験の活動的性格を稀薄にした名詞であるのに対して,「学び」という言葉は,「学ぶ」という行為を名詞化した動名詞であり,こちらの言葉の方が,同じ動名詞で表現される英語のlearningニュアンスに近いと言えよう。
p.51 教師は,教室において「学習」を操作し統制することはできても,子どもの「学び」については,触発し援助できても操作し統制することはできない「学び」は,子ども一人ひとりが内側で構成する個性的で個別的な「意味の経験」にほかならないからである。
p.52 「学び」という言葉の含意する目的的で活動的な性格共同体的で社会的な性格,および,知性的で倫理的な性格は,戦後の教育学と教育実践に大きな影響を及ぼしたデューイとヴィゴツキーの学習理論に含まれていた特徴であった。
p.55 ディーイの受容における曲解を示す現象として,次の四点を指摘しておこう。
 まず第一に,デューイの提唱する「経験」の知性的性格が,まったくと言っていいほど理解されなかったことである。デューイのいう「経験」は学校で組織される「学習経験」を意味しており,子どもが教室で遂行する学習経験と科学者の実践する学問経験との間の「探求」における連続性を表現していた。しかし,新教育の推進者たちは,デューイの「経験」から「探求」の性格を剥奪し,学校外の日常生活の体験を意味するものとして「経験」を理解し普及している。
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第二に,上記の事態の一つの結果といえるが,デューイの教育理論が「生活教育」という標語のもとで受容されたことである。デューイの著作をつぶさに検討すれば明らかだが,彼は「生活教育」という用語を一度も使ってはいない。デューイは,社会生活と学校教育との連続性を主張していたが,その「教育」とは,問題解決的な探求による「経験の再構成」であって,「生活による教育」でも「生活のための教育」でも「生活の教育」でもなかった。
p.57 第三に,デューイに対する曲解の著しい特徴として,「なすことによって学ぶ」という言い回しによる「学習」の体験主義的な理解をあげることができる。これもデューイの著作を丹念に検討すれば明らかだが,「なすことによって学ぶ(learning by doing)」という表現は,デューイの通俗的解釈において普及した言い回しであって,デューイの定義した「学習」そのものではない。
p.58 第四に,デューイの「学習」を特徴づけていた「共同体」の欠落を指摘できる。デューイにおいて学校は,小さな「社会」であり「共同体」でなければならなかった。
p.58  デューイの「学習」のきわだった特徴は,生物学的モデルから出発しながらも,ワトソンやソーンダイクなどの動物実験をモデルとする行動主義心理学の「学習」とは異なり,環境に対する人間の活動的交渉を積極的に意味づけて反省的思考を基礎とする「探究」としての「学習」の概念を提出したところにある。デューイの「学習」は,意味を構成する「探究」としての性格を獲得することによって,環境への順応をはかる動物の学習とは区別され,言語やシンボルや用具を使用して環境と活動的に交渉する「道具的思考」において基礎づけられたのてある。人間は,環境の刺激に対する「反射」を通して受動的し学習するのではなく環境に問を発し道具を活用して解決に挑み,洞察と反省と熟考という探求をを展開して,環境を意味的に構成しなから自らの経験も再構成するのである
 この問題解決的で反省的な思考は,デューイにおいて,人と人が交流する社会的過程として理解されていた。人が意味を構成するのは,コミュニケーションの過程においてだからである。こうして,「問題解決的思考=反省的思考=探究」は,個人的活動であると同時に,社会的共同体活動でもある。人は,「学習」を通して自分自身と環境の関係を構成するだけでなく,その意味の構成を通して,人と人の社会的関係と共同体的関係も構成しているのである。
 したがって,デューイにおける「学習」は,環境と主体の関係を構成する認知的経験であると同時に,他者との関係を構成する社会的経験でもある。そして,「学習」という「経験」は,連続的に拡大し発展する性格を与えられている。子どもの「学習経験」は,科学者の探求との連続性を有する経験として準備されるべきであり,社会生活と歴史との連続性有する経験として準備されるべきであり,それらの「探求」を共有する「共同体」を学校に構成して「民主主義」の社会を準備するよう組織されなけれはならなかった。これらの要請を充たす学習経験を,デューイは,「有意味な経験(meaningful experience)]と表現しているが,この「有意味な経験」こそ,カリキュラムに組織すべき学びの経験であった。
p.60 ヴィゴツキーの「学習」と「発達」の概念も,戦後の教育学と教育実践に大きな影響を及ぼしている。その影響は,「発達の最近接領域」の理論と「生活的概念」と「科学的概念」の理論の二つを焦点としていた。ヴィゴツキーーの言語学への影響は,「外言(コミlュニケーションの言語)と「内言(思考の言語)」の理論を中心としていたが,教育と教育学においては,先の二つの理論を中心に受容と普及がはかられている。「発達の最近接領域」は,発達に対する教育の主導性を主張する原理として導入され,「生活的概念」と「科学的概念」の理論は,「経験主義教育」を克服し「系統的教育」を実現する原理として導入されている。いずれも,科学教育の推進と教科教育の展開という,1960年代の教育状況に呼応した導入であった。
p61 「発達の最近接領域」とは,子どもが一人で問題を解決できる発達のレベルと,その問い解決の過程に教師や仲間の援肋が介在したときに達成される発達のレベルとの間に存在する,「発達の可能性」の領域を意味している。この「発達の最近接領域」を提示することによって,ヴィゴツキーは,学習を成熟に還元する生物学モデルの発達理論を批判するとともに,発達と学習を同義とみなす行動主義の発達理論を批判し,学習と発達の関係を説明しうる独自のの理論を堤起したのである。
p61-62 まず第一に,「発達の最近接領域」が「学習と発達の関係」としてではなく「教育と発達の関係」に限定されて普及した点である。そこには「教授=学習」を意味する原語の訳語上の困難もあったのだが,それ以上に,この概念が,デューイに代表される「経験主義」を克服する意図で導入されたという,日本における特殊性をみることができるだろう。デューイの「経験」を体験主義に曲解して導入した受容のゆがみは,ヴィゴツキーの導入において再び屈折し学習の「活動」や「経験」を軽視するという,逆のゆがみを再生産している。
 「発達の最近接領域」は,ヴィゴツキーにおいて,学校教育の固有性を示す「科学的概念の教育」と「教育の主導性」を主張する意図だけで提示されたわけではない。それは,学習の活動的性格関係論的理解を主張する概念であり,言葉の「内容的な意味(meaning)」(科学的概念)が機能する「対人関係(interpersonal relations)」言葉の「感覚的な意味(sense)」(自発的概念)が機能する「自己内関係(intrapersonal relations)」との間に広がる学習の可能性を示す概念であった。ここで,「対人関係」で機能する「内容的な意味」は,文脈を越え一般的な意味を構成するのに対して,「自己内関係」で生成する「感覚的な意味」は,特定の具体的対象との指示関係(リファレンス)を構成するものとされている。この二つの異なる次元の「意味」を区別し関係づけることによって,ヴィゴツキーは,言葉という「心理学的道具」を使用する人間の学習が,まず最初に「対人関係」の社会的過程において成立し,その次に「自己内関係」の心理的過程へと展開することを示していた。「発達の最近接領域」は人間の学習の社会的性格を主張する概念なのであり,学習過程における「社会」と「自己」との関係論的把握を提示する概念であった。しかし,わが国においては,学習の関係論的理解と社会的性格は捨象され,認知的次元における科学的概念の形成の問題として理解されている。
p.63 たとえば,デニス・ニューマンやマイケル・コールらは「発達の最近接領城」を「学習の可能性」を構成する「社会的文化的文脈」とみなして「協同学習」の意義を主張しジェローム・ブルーナーらは,「発達の最近接領域」における「道具的思考」と「社会的過程」を強調して,学習の跳躍を大人が準備する「足場づくり(scaffolding)」の意義と「仲間相互の教え合い(peer tutoring)」の重要性に着目してきた。すなわち,子どもの「発達の可能性」は,教室の人間関係や社会的文脈の構成によって伸縮するのであり,学習を援助する手だてによっても変化するというのである。事実,アメリカにおける「発達の最近接領域」の概念の普及は,バラバラの机の個人学習からテーブルを配置した協同学習へと,教室の環境と学びの様式を変化させるものとなった。
 また,ジェームズ・ワーチらは,ヴィゴツキーの「記号論的接近」に注目して,彼の学習概念が対人関係と自己内関係の双方の次元において意味を構成する活動であったことを示しつつ,ヴィゴツキーの「内言(自己内関係において機能する思考の言語)」バワチンの「多声的言語」と関連づけながらコミュニケーションを内化する学習の過程で,学習者の自己が社会的に構成される過程に論究している。
p.63-65  第二に,「生活的概念」と「科学的概念」の関係に関しても検討しておこう。この二つの概念の比較を通して,ヴィゴツキーは,学校における学習の固有の意義と過程について言及していた。文法の習得から出発する外国語の学習と,聞くことから出発する母語の学習を比喩として対比しつつ,ヴィゴツキーは,「科学的概念」の学習は,日常生活における「自発的概念(生活的概念)」の形成とは逆の過程で遂行されると述べ,学校教育においては,「教育」が「発達」を主導する関係正統に位置づけなければならないという。その限りで言えば,わが国の紹介にゆがみがあったわけではない。問題は,この理論が,「科学的概念の形成」教科教育の至上目的とする「科学主義」と「教科主義」をもたらしたことにある。
 ヴィゴツキーは,「科学主義」を主張して「科学的概念」と「自発的概念」を探究したわけでもなければ,「科学的概念」の獲得における「活動」や「経験」の意義を過小評価していたわけでもなかった。ヴィゴツキーにおいて「科学的概念」と「自発的概念」との違いは,抽象と具体の違いというよりは,むしろ,言葉と意味が構成される社会的様式の違いにあった。彼のいう「科学的概念」が,対人関係における言葉の一般化された「内容的な意味」に対応していたのに対して,「自発的概念」は,自己の言葉と具体的対象との指示関係を示す「感覚的な意味」に対応していたことを想起しよう。その意味で,「生活的概念」という用語は,同じ内容を示す言葉として用いられている「自発的概念(spontaneous concept)」に統一して表記した方が明瞭かもしれない。彼は,学習を社会的過程として認識したのであり,社会的過程で現われる「科学的概念」が個人に「内化」される心理的過程を探究していたのである。
 しかし,わが国の普及において,学習の社会的過程は捨象され,個人における純粋に心理的な過程に閉ざされている。その結果,ヴィゴツキーの理論は,教科内容の科学的組織と教育指導の主導性の課題として議論されたものの,学習の文脈を構成する社会的関係を再組織する課題としては問題にされなかったヴィゴツキーの発達の要諦ともいえる社会的過程は,心理学的に限定され捨象されたのである。
p.65  第三に,ヴィゴツキーの「学習」において中心的位置にある「活動」の意義が過小評価された点を指摘できる。「デューイの経験主義」に対する批判として導入されたヴィゴツキーの理論は,そのために,「活動」と「道具」に対する関心を軽視する結果を招いたと言えよう。ヴィゴツキーの「学習」は活動的性格を剥奪され,具体的対象の道具的操作の活動を捨象した抽象的で無媒介的な知識の理解に閉ざされている。
 ヴィゴツキーにおける「活動」の重要性は,レオンチェフ,ルリヤヘと連なる「活動主義学派」の出発点に彼が位置づけられていることからも知ることができるだろう。『思考と言語』における「思考」と「言語」という用語にしても,原著では「思考すること」と「話す言葉=話す活動」を意味しておりそれぞれ「意味を構成すること」と「言葉を構成すること」に対応していたそして「意味の構成=思考すること」は,一般化された知識が歴史的に構成されていることから学習の歴史的性格に対応し,「言葉の構成=話す言葉=話す活動」は,その言葉を通して人と人の関係を構成することから,学習の社会的性格を表現していたのである。
p.66  活動こそヴィゴツキー理論の中心概念であった。「心理学的道具」としての言葉を使用して意味と関係を構成する「活動」として学習を定義することによって,彼は,概念の意味を,知識の中に所与に内在するものとしてではなく,「活動」を通して社会的に構成し「内化」を通して心理的に構成するものとして再定義したのである。彼の活動的学習は,言語,論理,シンボル,概念などの「道具」を媒介とする社会的コミュニケーションの活動である点で,先に示したデューイのそれとも重なり合う性格を示している。
 第四に,学習の自己内関係に対する彼の考察について,わが国では,関心が向けられなかった点がある。ヴィゴツキーの心理学は,ヨーロツパとアメリカの心理学に対する包括的接近を特徴としており,ヴントの実験心理学の系譜を中心に,ワトソンやソーンダイクの行動主義の心理学,ケーラーやコフカのゲシュタルト心理学,さらには,フロイトの深層心理学をも統合する意図で探究されていた。その包括性は,彼の学習と発達の理論が,認知的側面と社会的側面だけでなく,自我や自己の概念で構成される「自己内関係」の考察を含んで展開されていた点に表現されている。
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 デューイとヴィゴツキーの普及に見られる「学習」のゆがみと限界は,その後も,ひき継がれ再生産されている。たとえば,教科内容の現代化の時期に,教科教育における「構造」の概念が,「認知の構造」ではなく「教材の構造」に矮小化されて普及した傾向,あるいは,知識の構造(意味的構造)に限定され,認識と表現のディスコースの構造(構文的構造)においては理解されなかった傾向などは,その証左である。これら教育学における「学習」の屈折と一面性は,わが国の学校文化のゆがみを端的に反映しているといえよう。それらのゆがみに共通してみられる学校の学びの体質的な問題一般的特徴を記しておこう。
p.68  第一に,学びにおいて意味を構成する活動的性格の欠落であり,道具的思考と問題解決的思考の欠落であり,道具的思考と問題解決的思考の欠落である。デューイとヴィゴツキーの理論共通していた学びとは,所与の知識や技能を受動的・機会的に習得することではなく,対象であるモノや事柄や社会に働きかけて問題を構成し,道具的思考を展開して対象の意味を構成し世界を構成するという,「問題解決的思考」という学びの活動的性格であった。
p.68  第二に指摘できるのは,具体的・経験的・実践的な認識抽象的・概念的・理論的認識との二元論であり,両者の段階的な区分と乖離である。デューイとヴィゴツキーの理論は,いずれも,感覚と意味,具体と抽象,経験と概念,実践と理論二元論の克服を真髄としていたにもかかわらず,わが国においては,それらの二元論を拡大し助長する結果をもたらしている。
p.70  第三に,学びの効率的な手続き化であり,認識と表現における語り方と論じ方(ディスコース)に対する関心の欠如である。デューイとヴィゴツキーの正統な普及を妨げた一つの要因として,効率主義的な学校教育における固定的な知識観結果主義の学習観がある。デューイにおいてもヴィゴツキーにおいても,知識は学びの活動とコミュニケーションの過程において連続的に構成され,変容し発展し続けるものであった。
p.70  知識を生成し発展する過程として認識する見方と,知識の意味を文脈に即して認識する見方を欠落すると,学習は容易に手続き化し,習得を至上目的とする結果主義におちいることとなる。正解主義,テスト主義,受験学力と呼ばれる効率主義の学習は,その典型である。
p.70-71  第四に,学びに対する個人主義的・心理主義的な理解であり,社会的・共同体的な性格の欠落である。デューイの学習の概念もヴィゴツキーの学習と発達の概念も,言語的コミュニケーションとして説明されており,個人主義的で心理主義的な学習を克服する意図で貫かれていた。学びは人と人の関係において成立する社会的実践であり,学びを構成する言語はコミュニケーションの言語であるというのが,両者に共通した主張であった。デューイ学校を「共同体」として表現し,学習を反省的思考の社会的過程として定義したのも,ヴィゴツキーが,学習の言語をコミュニケーションの言葉英訳するとspeech)に求めたのも,学びを社会的に構成された対話的な過程として定位したからにほかならない。
p.72  学びの活動意味と人の関係の編み直し(retexturing relations)として再認識するとすれば,学びの実践は,学習者と対象の関係学習者と彼/彼女自身(自己)との関係学習者と他者との関係という三つの関係を編み直す実践として再定義することができるだろう。学ぶ活動は,対象世界の意味を構成する活動であり,自己の輪郭を探索しかたちづくる活動であり,他者との関係を紡ぎあげる活動である。
 ここで,三つの次元の「関係の編み直し」が,「意味の編み直し」を通して達成されるところに,学びの実践認識論的基礎を求めることができるだろう。「関係(relation)」という概念は「語る(relate)」という動詞から派生した言葉であった。対象や自己や他者との「関係」を構成し解体し修復することは,それらの「意味」を「語る」ことと同義である。すなわち,学びという実践は,対象と自己と他者に関する語りを通して意味を構成し関係を築き直す実践なのである。
p.73  学びにおける第一の対話実践は,対象との対話である。この実践は,対象を認識し言語化し表現する文化的・認知的実践であり,これまで一般に語られてきた「学習」の活動がこれに対応している。
p.73 学びにおける第二の対話実践は,自己との対話である。学習者は,対象の意味を構成し,世界との関係を構築しながら,同時に,自己内対話を通して,自己の保有する意味の関係を編み直し自己の内側の経験を再構成している。この自己との対話的実践も,学びが言語的実践として展開していることを基礎としている。言語こそ「経験の経験」(ヴィゴツキー)を可能にする人間に特有の道具であり学びににおいて対象の意味を構成する言語的実践は,同時に,自己の網の目の関係を構成する活動にほかならない。
p.74 人は経験を経験する言語というメタ思考の道具を活用することによって,対象の世界の意味を構成しながら,同時に,その対象世界に対峙する自己自身を構成し,さらには,自己自身を対象化するメタ思考を展開して,自己自身を再構成している
p.74  学びにおける第三の対話的実践は,他者とのコミュニケーションという対話の社会的過程において表現されている。あらゆる学びは,他者との関係を内に含んだ社会的実践である。教室における学びは,教師や仲間との関係において遂行されているし,一人で学ぶ状況におかれた場合でさえ,その学びには他者との見えない関係が編み込まれている。教育内容の知識は,それ自体が社会的に構成されているし,学びの活動は,見えない他者の活動からのがれられないからである。
 このように,学びの実践とは,教育内容の意味を構成する対象との対話的実践であり,自分自身と反省的に対峙して自己を析出してづける自己内の対話的実践であり,同時に,その二つの実践を社会的に構成する他者との対話的実践である。
p.75  学びの実践は,「世界づくり(認知的・文化的実践)」「自分探し(倫理的・実存的実践)」「仲間づくり(社会的・政治的実践)」が相互に媒介し合う三位一体の実践なのである。
p.75  学校教育においては,学びの「時間」と「空間」と「人」と「知識」と「環境」のすべてが「効率性」の原理を基礎として制度化されている。
p.75-76  テーラーシステムが,職人の労働の質的な時間均質の作業時間の量的単位に置き換えて大量生産を実現したのと同じ構造で,効率性を原理として組織された学校では,学びという質的な経験均質な作業時間の単位に置き換えて,カリキュラムと授業を組織している。
p.76 教室では,子ども一人ひとりが内側で経験している質的な時間は捨象されており,教室の壁にかけられたカレンダーと時計の示す細切れの量的時間が,子どもたちの内側の時間を統制している。教室では,子どもが自らの時間を生きる条件を奪われているのであり,経験が経験として成立する根本的条件を剥奪されている。
p.77  学校に組織された効率的な学びは,その対話的な性格を剥奪されている。学校の制度化された学びは,具体的対象の操作と構成の活動を捨象されているために,対象の世界の意味を構成する活動としての学びではなく,所定の知識の習得と定着を基本とする学びへとおとしめられている。具体的な対象と意味を喪失した学びは,教育内容としての知識が,脱文脈化され脱人称化されることによって助長されているといえよう。文脈を切断し意味を中立化し文体を非人称化した知識は,教科書の特徴的性格であるが,その知識は,もはや「知識」と呼ぶよりも「情報」と呼ぶ方が妥当だろう。


「教育の方法」 放送大学叢書,2010年

p116

第九章

授業のデザイン
1.授業の組

授業づくりの過程は三つの段階に分けられます。第一の段階は「計画」もしくは「デザイン」の段階です。第二の段階は「実施」もしくは「実践」の段階です。第三の段階は「評価」もしくは「反省」の段階です。この三つの段階については、行動科学による数量的研究の方法と行動科学以後の質的研究の方法では、異なった考え方がされています。

 行動科学の方法において、授業づくりは「計画・達成・評価」の三つの段階の直線的な過程として認識されます。そして、授業と学びの過程は、計画段階の教育目標と結果としての学業成績の評価との間の因果関係を科学的に調査し、より生産性と効率性の高い授業過程の統制が求められます。したがって、行動科学による授業の研究は「過程=産出モデルの研究(process−product research)」と呼ばれています。「過程=産出モデル」における授業の三段階において重視されるのは「計画(予測)」であり「教育目標」に照らした「評価」です。

 それに対して、行動科学以後の授業研究は、授業と学びの過程とその経験それを重視する研究へと移行しています。「過程=産出モデル」においては「ブラック・ボックス(暗箱)」とされていた教室の出来事や経験それ自体の意味を中心に研究を進め、その出来事の省察や経験の反省によって授業実践を改善しようとしているのです。この見方に従えば、授業は、計画によって過程を統制しその価値を結果で評価するものとは異なってきます。授業はデザインされ、教室の中の活動で絶えず修正され、複雑な出来事の意味を省察し反省することによって、より意味のある経験が創造されることになります。そこで「デザイン」「実践」「反省」は、段階的過程ではなく、往還的で循環的な過程として認識されています。
p119

2.授業の構造

授業において教師はどのような活動を遂行しているのでしょうか。

p119

教師の〈実践〉は,教師と生徒の間の〈実践〉、教師と教育内容の間の〈実践〉、そして生徒と教育内容の間の〈実践〉と教師の間の〈実践〉、生徒と生徒の間の〈実践〉と教師の間の〈実践〉という、いくつもの〈実践〉を総合した複合的な〈実践〉として遂行されているのです。 授業をデザインし遂行し評価する教師の実践は、このような複雑な〈実践〉を総合した〈実践〉をデザインし遂行し評価することを意味しています。

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3.授業をデザインし創造する

 授業のデザインと実践のプロセスをたどってみましょう。.教師はカリキュラムの単元の内容と生徒の興味や関心を考慮して授業をデザインします。「デザイン」という行為は、子どもが積み木で建物を建てるときのように、手探りでアイデアを具体的なかたちに表現することを意味しています。積み木遊びで子どもは「そうだ、いいこと考えた」とつぶやきながら、途中、何度もアイデアを変化させて建物のかたちを変えてゆきます。このように、デザインは対象との絶え間ない対話によって生成し発展します。授業のデザインも同様です。教育内容の主題と生徒との創造的な対話によって一つの授業のかたちがデザインされてゆきます。そして、このデザインは授業の前、中、後をとおして絶えず修正されてゆきます。

 授業のデザインにおいて決定的に重要なのは主題です。その教材で生徒と何を追求するのか、その主題はどのような学びの発展性をもたらすものなのか。その洞察が授業における生徒の学びの経験の質を決定づけるものとなります。

 授業のデザインにおいて主題の次に重要なのが過程の組織です。どんなに意味のある主題も、豊かな探究と表現の過程が組織されなければ、学びの経験は貧弱なものになってしまいます。生徒の学びの経験を認知的(文化的)経験、対人的(社会的)経験、自己内的(実存的)経験として豊かなものとして実現するために過程がデザインされます。そして教室における実践の段階では、デザインと省察を組み込んだ複雑な活動が展開されます。

p122

生徒のコミュニケーションで見ると、教師の活動は大別して二つの活動で構成されています。一つは「個への対応」です。

 「個への対応」は、コミュニケーションの基本的要件であるだけでなく、援助を必要とする生徒への対応として重要です。生徒の能力や個性や関心が多様であるように、一人ひとりの生徒が必要としている援助も多様です。一人ひとり体格の違う人の洋服をつくる仕立屋(テーラーにちなんで、教師が行う「個への対応」は「テーラーリング」と呼ばれています。

 教師が生徒とのコミュニケーションで行っているもう一つの活動は、「個と個のすり合わせ」です。教室は多様なアイデアやイメージを交流して学び合う場所です。一つの課題にも多様なアプローチが生まれ、一つの言葉にも多様なイメージが表現され、一つの意昧にも多様なコンテクストが現出します。学びがあきらかに確実に展開する教室は、教師によって一人ひとりのアイデアやイメージの差異が尊重され、豊かに交流されている教室です。

この「個と個のすり合わせ」を組織する活動は「オーケストレーティング」と呼ばれています。一人ひとり違う音色と異なる音で、響き合いを生み出す「オーケストレーティング」は、教室のコミュニケーションを豊かにする上で、もっとも重要な方法です。

 「省察」と「反省」は、授業の前、中、後をとおして行われます。「省察」と「反省」は二つの対話によって成立しています。一つは「状況との対話」であり、もう一つは「自己との対話」です。この二つは実践を成立させる基本要件であり、「省察」と「反省」の能力は、専門家としての教師の能力の中核を形成しています。また、[省察」と[反省」は、状況が提起する課題を自らのの責任において引き受ける活動でもあります。