哲学思想分野名言集 |
E.フロム |
|
生きるということ | 「人間は自らの知識を捨てなければならない」と言う時、彼の意味するのは、人は自分の知っていることを忘れるべきだということではなく、自分が知っているということを忘れるべきだということである。それはすなわち、私たちは自分の知識を所有物として、そこに安心を見いだし、そこから同一性の感覚を与えられるものとして、見るべきではないということである。私たちは自分の知識で〈満たされ〉たり、それにしがみついたり、それを渇望したりしてはならない。知識は教条の特質を帯びてはならない。教条は私たち奴隷にするからである。これらはすべての持つ様式に属する。ある様式においてほ、知識は思考の洞察的能動性以外の何ものでもない。 |
持つことが関係するのは物であり、物は固定していて記述することができる。あることが関係するのは経験であって人間経験は原則として記述できない。 | |
ある様式には、その前提条件として、独立、自由、批判的理性の存在がある。その基本的特徴は能動的であるということだが、それは忙しいという外面的能動性の意味ではなく、自分の人間的な力を生産的に使用するという、内面的能動性の意味である。 言葉は経験を満たした器であり、経験は器からあふれ出る。言葉は経験をさし示すが、言葉は経験ではない。経験するものを思想と言葉のみで表現した瞬間に、その経験は消えている。 |
|
マルクスは、「自由で意識的な能動性」(すなわち人間の能動性)は「人間の種としての性格である」と書いた。労働は彼にとっては人間の能動性を表わし、人間の能動性は生命である。一方、資本はマルクスにとって蓄積されたもの、過去、そして結局は死せるものを表わしている。 | |
持つ存在様式もある存在様式も、ともに人間性における可能性であり、生存を求める私たちの生物学的衝動は、持つ様式を促進する傾向を持つが、利己心と怠惰だけが人間の生来の性癖であるわけではない。 私たち人間には、ありたいという生来の深く根ざした欲求がある。それは自分の能力を表現し、能動性を持ち、他人と結びつき、利己心の独房からのがれ出たいという欲求である。 |
|
死ぬことの恐れを真に克服するには、ただ一つの方法しがなく、その方法は、生命に執着しないこと、生命を所有として経験しないこと、によるものである。 持つ様式に生きているかぎり、それだけ私たちは死ぬことを恐れなければならない。 いかに死ぬべきかの教えは、実際いかに生きるべきかの教えと同じである。あらゆる形の所有への渇望、とくに自我の束縛を捨てれば捨てるほど、死ぬことの恐れは強さを減じる。失うものは何もないからである。 ある様式は、今ここにのみ存在する。持つ様式はただ時の中にのみ、すなわち、過去、現在、未来の中に存在する。 持つ様式においては、私たちは過去に蓄積したものに縛られる。金、土地、名声、社会的地位、知識、子供、記憶。私たちは過去について考える。そして過去の感情(あるいは感情と思われるもの)を想起することによって感じる。(これが感傷の本質である。)私たちは過去である。私たちは、「私は私があったところのものである」と言うことができる。 未来は、やがて過去となるものの予測である。それは過去と同じょうに、持つ様式で経験され、「この人は未来を持っている」という言い方で表現されるが、その意味は、彼もしくは彼女は今はそれらを持っていないが、やがて多くの物を持つであろうということである。 |