哲学思想分野名言集 

    

E.フロム
 この人は、学生時代孫引きで読んで、興味を持ちました。「ある様式」と「持つ様式」というのは、人間存在の在り方を考える上で、何か惹かれるものがありました。人間は、何かを所有することによって、それに執着し、自由を奪われるのではないでしょうか。そう考えると、フロムの言葉は心に響きます。
生きるということ 偉大な〈人生の教師たち〉は、持つことあることとの間の選択を、彼らのそれぞれの体系の中心的な問題としてきた。仏陀は、人間の発達の最高段階に到達するためには所有を渇望してはならなと教える。イエスは教える。「自分の生命を救おうと思う者は、それを失うであろう。しかし私のために自分の生命を失う者は、それを救うであろう。たとえ全世界を得ようとも、自分を失い、自分を損するならば、何の益があろうか
    マルクスぜいたくが貧乏に劣らず悪であること、そして私たちの目的は多くあることでなければならず、多く持つことであってはならないと教えた。
   この区別(持つこととあることの区別)は生命への愛死せるものへの愛との間の区別とともに,存在の最も重大な問題としての意味を持つこと,そして経験的,人類学的,精神分析的データは,持つこととあることとは二つの基本的存在様式であって,それぞれの強さ個人の性格やいろいろな型の社会的性格の間の違いを決定する,ということを明らかにする傾向を持つ。
   あるということによって私が言及しているのは、人が何も持つことなく、何かを持とうと渇望することもなく、喜びにあふれ、自分の能力を生産的に使用し、世界と一になる存在様式である。
    観念としての愛は永続し不変であると言えるだろう。しかし存在し、愛し、憎み、苦しむ人間の現実から出発すれば、あることはみな同時に、なることであり、変化することである。生きている構造は、なる時にのみありうる。それらは変化する時にのみ存在しうる。変化と成長は生命の過程に内在する特質である
 生命を実体としてではなく過程としてとらえる、ヘラクレイトスおよびへーゲルのラディカルな概念に類似した概念は、東洋世界においては仏陀の哲学の中に見いだされる。仏教思想の中には、物であれ自己であれ、いがなる持続的、永続的な実体の概念をも、容れる余地はない。過程以外には何も実在しない
    ある様式における最適度の知識は、より深く知ることである。持つ様式においては、それはより多くの知識を持つことである。
 私たちの教育は一般的に、人びとが知識を所有として持つように訓練することに努め、その知識は彼らがのちに持つであろう財産あるいは社会的威信の量とだいたい比例する。
    人は愛を持つことができるだろうか。もしできるとすれば、愛は物でなければならず、人が持ち、占有し、所有することのできる実体でなければならない。実を言えば、〈愛〉というようなものはない。
 〈愛〉とは抽象概念であり、おそらくは女神であり異邦人である。しかしこの女神を見た者はない。実際には、愛するという行為のみが存在する愛することは生産的能動性である。それは人物、木、絵、観念を尊重し、知り、反応し、確認し、享受することを意味する。それは生命を与えることを意味し、彼の(彼女の、それの)生命力を増大することを意味する。それは自らを更新し、自らを増大する一つの過程である。