松波信三郎 |
抜粋文
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実存主義 |
実存とは、自己から脱出して、存在の明るみの中に立つことである。いいかえれば、実存Existenzとは、存在の明るみの中に出で立つ「脱自存在」Ek-sistenzである。 |
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超越するとは、一般に、対象的なものを超えて非対象的なものへ出ていくことである。われわれが主体性Subjektivtatといっているのは、このようにしてたえず超越に直面する実存の態度をいうのである。 |
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自己は知られうるかぎりのすべてより以上である。Das Selbst ist
mehr als alles Wissbare. |
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私は私だけで孤立して存在するのでなく、他の「私」とともに存在する。私は他の「私」との関係において、私を確かめることができる。私が私自身を得るのは、交わりKommunikationにおいてである。 |
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実存的自由existentielle Freiheitは、自己がその個別的現実的な状況の中から、自己自身であろうとして選択し決断するところにのみ見いだされる。。 |
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人間は存在するのではない。人間は実存する。 |
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意識は、存在のふところから出現しながら、存在について意識することによって、存在のさなかに無をしのびこませ、存在のふところへ無を分泌する。 |
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サルトルの表現によれば、即自存在は、「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬような存在」として規定される。 |
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対自存在は、「それがあるところのものであらず、あらぬところのものであるような存在」として規定される。 |
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実存するとは、脱自的、超越的なありかたで、自己がいまだあらぬところのものであるように、また自己が現にあるところのものであらぬように、自己を成らせていくことでる。。 |
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超越するとは、自己をのりこえていくことにほかならない。 |
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人間は、死の瞬間にいたるまで、つねに途上にあり、決してあるところのものであるような存在にはなりきれない。 |
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人間は存在の無であり、存在の穴であり、あたかも堅い岩のなかの裂け目のようなものである。 |
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人間は行住坐臥いたるちころに無をまき散らし、無を介入させる。そこに人間の自由がある。 |
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人間はまず実存して、しかるのちに自由であるのではない。実存するとは、自由であることである。 |
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自己のかなたへ、自己を投げかけるのは、いわば不確実なものに対して自己を賭けることである。そういう意味では、人生は不断の賭であるといってもいい。 |