哲学思想分野名言集 

    

鈴木大拙
この人は、わたしが禅をはじめた頃、多少本を読みかじりました。また今になって読んでみると、新たな感動があります。これがわたしの出発点かもしれません。
東洋的な見方 禅者(至道無難禅師)の
 生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき
ここにの境地がある。畢竟ずるに、「子供になれ」、「赤子の心を失うな」などというのは、いずれもこの点を見ての話である。
     分別して分別せぬこと「罪」の存在で、そのまま「罪のない」生活をしようという。そこに絶対の矛盾がある。この矛盾をどう処置して行くべきものか。これが論理上の矛盾だけでなくて、日々の生活上に、時々に刻々に、遭遇するところのものである。神経過敏ならざるをえぬ。東洋では、「哲学」がすなわち生活なのである
    東洋では立派な思想の殿堂を造らぬ代わりに、自分の住居は、すべて行住座臥の庵室として、いかにも心にくきまでに、瀟洒で静寂である。誰が来ても心くつろぎ、神代の昔になったと思うまでに、アンインヒビテッド(のびやか)で、八面玲瓏で、円融無碍である。
     が物を言うときには、論理的には絶対矛盾の形式で表現せられ、存在論的には、何事をも「そのまま」に肯定し、「山は是れ山、水は是れ水」となり、「廬山は煙雨、浙江は潮」で片づく。
     鼠を食う猫でも、鹿を食う獅子でも、憎悪の念もなければ、強弱の自覚もなく、善悪の差別もしなければ、可哀想だという憐れみも何もない。各自の特性をそのままに、「子供心」の発露に外ならぬ。この点では大人の人間ほど、罪深いものはない。
     肯定と否定との二つがある。禅者はいずれかを取るに当たって、あらかじめ決めていない。その場合場合で肯定もしたり、否定もする。否定の場合には、何もかも片端からぶっ倒してしまう。賢者も愚者もあったものではない。善も悪も、是も非も、真も偽も、一斉に否定する。絶対の否定だ。これに反して、肯定の一面に立つ場合には、なんでもかんでも、然り然り、そうだそうだと肯う。いかに小さな虫けらでも、ぺんぺん草でも、鼠の小便でも、一切の価値をそのまま受け入れる。いずれもそれぞれに光明を放っている。
    剣を取って立ち会うということは命のとりやりになるのだから、一刻も自分を忘れなどしたら、命丸出しになる話でなければならぬ。危険千万な心がけである。ところが実際の上では、自分のことを考えていると、そこにそれだけの隙が出てくる。ちょっとの隙でも隙が出れば、そこに相手の剣を招くことになる。それで命を落とせば事実は自殺したのである。剣刀上の試合は電光石火で、「私」を容れる余裕がない。ところが命の取り合いという際どい間際に自分をどうして忘れ得るか。ここに人間心理の機微が窺われるのである。事実「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのである。
    自由の本質とは何か。これをきわめて卑近な例でいえば、松は竹にならず、竹は松にならず各自にその位に住すること、これを松や竹の自由というのである。
     松が竹にならぬというのは、人間の判断で、松からいえばいらぬお世話である。松は人間の規則や原理で生きているのではない。こういうのを自由というのである。